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母を尋ねて三千里
電脳図書館せせらぎ文庫
母を尋ねて三千里アミーチス日本童話研究会訳一 もう何年か前、ジェノアの少年で十三になる男の子が、ジェノアからアメリカまでただ一人で母をたずねて行きました。 母親は二年前にアルゼンチンの首府ブエーノスアイレスへ行ったのですが、それは一家がいろいろな不幸にあって、すっかり貧乏になり、たくさんなお金を払わねばならなかったので母は今一度お金持の家に奉公してお金をもうけ一家が暮せるようにしたいがためでありました。 このあわれな母親は十八歳になる子と十一歳になる子とをおいて出かけたのでした。 船は無事で海の上を走りました。 母親はブエーノスアイレスにつくとすぐに夫の兄弟にあたる人の世話でその土地の立派な人の家に働くことになりました。 母親は月に八十リラずつ[#「ずつ」は底本では「ブフ」]もうけましたが自分は少しも使わないで、三月ごとにたまったお金を故郷へ送りました。 父親も心の正しい人でしたから一生懸命に働いてよい評判をうけるようになりました。父親のただ一つのなぐさめは母親が早くかえってくるのをまつことでした。母親がいない 月日は早くもたって一年はすぎました。母親の方からは、身体の工合が少しよくないというみじかい手紙がきたきり、何のたよりもなくなってしまいました。 父親は大変心配して兄弟の所へ二度も手紙を出しましたが何の返事もありませんでした。 そこでイタリイの領事館からたずねてもらいましたが、三月ほどたってから「新聞にも広告してずいぶんたずねましたが見あたりません。」といってきました。 それから幾月かたちました。何のたよりもありません。父親と二人の子供は心配でなりませんでした。わけても小さい方の子は父親にだきついて「お母さんは、お母さんは、」といっていました。 父親は自分がアメリカへいって妻をさがしてこようかと考えました。けれども父親は働かねばなりませんでした。一番年上の子も今ではだんだん働いて 親子は毎日悲しい言葉をくりかえしていると、ある晩、小さい子のマルコが、 「お父さん僕をアメリカへやって下さい。おかあさんをたずねてきますから。」 と元気のよい声でいいました。 父親は悲しそうに、頭をふって何の返事もしませんでした、父親は心の中で、「どうして小さい子供を一人で一月もかかるアメリカへやることが出来よう。大人でさえなかなか行けないのに。」と思ったからでした。 けれどもマルコはどうしてもききませんでした。その日も、その次の日も、毎日毎日、父親にすがりついてたのみました。 「どうしてもやって下さい。外の人だって行ったじゃありませんか。一ぺんそこへゆきさえすれば[#「すれば」は底本では「すれぼ」]おじさんの家をさがします。もしも見つからなかったら領事館をたずねてゆきます。」 こういって父親にせがみました。父親はマルコの勇気にすっかり動かされてしまいました。 父親はこのことを自分の知っているある汽船の船長に話しすると船長はすっかり感心してアルゼンチンの国へ行く三等切符を一枚ただくれました。 そこでいよいよマルコは父親も承知してくれたので旅立つことになりました。父と兄とはふくろにマルコの着物を入れ、マルコのポケットにいくらかのお金を入れ、おじさんの 父親は涙を流してマルコにいいました。 「マルコ、孝行の旅だから神様はきっと守って下さるでしょう。勇気を出して行きな、どんな辛いことがあっても。」 マルコは船の甲板に立って帽子をふりながら叫びました。 「お父さん、行ってきますよ。きっと、きっと、……」 青い美しい月の光りが海の上にひろがっていました。 船は美しい故郷の町をはなれました、大きな船の上にはたくさんな人たちが乗りあっていましたがだれ一人として知る人もなく、自分一人小さなふくろの前にうずくまっていました。 マルコの心の中にはいろいろな悲しい考えが浮んできました。そして一番悲しく浮んできたのは――おかあさんが死んでしまったという考えでした。マルコは夜もねむることが出来ませんでした。 でも、ジブラルタルの海峡がすぎた後で、はじめて大西洋を見た時には元気も出てきました。 船は白い波がしらをけって進んでゆきました。時々甲板の上へ美しい飛魚がはね上ることもありました。日が波のあちらへおちてゆくと海の面は火のように真赤になりました。 マルコはもはや力も抜けてしまって板の間に身体をのばして死んでいるもののように見えました。大ぜいの人たちも、たいくつそうにぼんやりとしていました。 海と空、空と海、昨日も今日も船は進んでゆきました。 こうして二十七日間つづきました。しかししまいには マルコはこのおじいさんにすっかり自分の身の上を話しますと、おじいさんは大変同情して、 「大丈夫だよ。もうじきにおかあさんにあわれますよ。」 といいました。 マルコはこれをきいてたいそう心を丈夫にしました。 そしてマルコは首にかけていた十字のメダルにキスしながら「どうかおかあさんにあわせて下さい。」と祈りました。 出発してから二十七日目、それは美しい五月の朝、汽船はアルゼンチンの首府ブエーノスアイレスの都の岸にひろがっている大きなプラータ河に錨を下ろしました。マルコは気ちがいのようによろこびました。 「かあさんはもうわずかな所にいる。もうしばらくのうちにあえるのだ。ああ自分はアメリカへ来たのだ。」 マルコは小さいふくろを手に持ってボートから波止場に上陸して勇ましく都の方に向って歩きだしました。 一番はじめの街の入口にはいると、マルコは一人の男に、ロスアルテス街へ行くにはどう行けばよいか教えて下さいとたずねました、ちょうどその人はイタリイ人でありましたから、今自分が出てきた街を マルコはお礼をいって教えてもらった道を急ぎました。 それはせまい真すぐな街でした。道の両側にはひくい白い家がたちならんでいて、街にはたくさんな人や、馬車や、荷車がひっきりなしに通っていました。そしてそこにもここにも色々な色をした大きな旗がひるがえっていて、それには大きな字で汽船の出る広告が書いてありました。 マルコは新しい街にくるたび[#「たび」は底本では「旅」]に、それが自分のさがしている街ではないのかと思いました、また女の人にあうたびにもしや自分の母親でないかしらと思いました。 マルコは一生懸命に歩きました。と、ある十文字になっている街へ出ました。マルコはそのかどをまがってみると、それが自分のたずねているロスアルテス街でありました。おじさんの店は一七五番でした。マルコは夢中になってかけ出しました。そして小さな組糸店にはいりました。これが一七五でした。見ると店には髪の毛の白い眼鏡をかけた女の人がいました。 「何か用でもあるの?」 女はスペイン語でたずねました。 「あの、これはフランセスコメレリの店ではありませんか。」 「メレリさんはずっと前に死にましたよ。」 と女の人は答えました。 マルコは胸をうたれたような気がしました、そして彼は早口にこういいました。 「メレリが僕のおかあさんを知っていたんです。おかあさんはメキネズさんの所へ奉公していたんです。わたしはおかあさんをたずねてアメリカへ来たのです。わたしはおかあさんを見つけねばなりません。」 「可愛そうにねえ!」 と女の人はいいました。そして「わたしは知らないが裏の子供にきいて上げよう。あの子がメレリさんの 女の人は店を出ていってその少年を呼びました。少年はすぐにきました。そして「メレリさんはメキネズさんの所へゆかれた。時々わたしも行きましたよ。ロスアルテス街のはしの方です。」 と答えてくれました。 「ああ、ありがとう、奥さん」 マルコは叫びました。 「番地を教えて下さいませんか。君、僕と一しょに来てくれない?」 マルコは熱心にいいましたので少年は、 「では行こう」 といってすぐに出かけました。 二人はだまったまま長い街を走るように歩きました。 街のはしまでゆくと小さい白い家の入口につきました。そこには美しい門がたっていました。門の中には草花の鉢がたくさん見えました。 マルコはいそいでベルをおしました。すると若い女の人が出てきました。 「メキネズさんはここにいますねえ?」 少年は心配そうにききました。 「メキネズさんはコルドバへ行きましたよ。」 マルコは胸がドキドキしました。 「コルドバ? コルドバってどこです、そして奉公していた女はどうなりましたか。わたしのおかあさんです。おかあさんをつれて行きましたか。」 マルコはふるえるような声でききました。 若い女の人はマルコを見ながらいいました。 「わたしは知りませんわ、もしかするとわたしの父が知っているかもしれません、しばらく待っていらっしゃい。」 しばらくするとその父はかえってきました。背の高いひげの白い紳士でした。 紳士はマルコに 「お前のおかあさんはジェノア人[#「ジェノア人」は底本では「ジェノマ人」]でしょう。」 と問いました。 マルコはそうですと答えました。 「それならそのメキネズさんのところにいた女の人はコルドバという都へゆきましたよ。」 マルコは深いため息をつきました。そして 「それでは私はコルドバへゆきます。」 「かわいそうに。コルドバはここから何百 紳士はこういいました。 マルコは死んだように、門によりかかりました。 紳士はマルコの様子を見て、かわいそうに思いしきりに何か考えていました。が、やがて机に向って、一通の手紙を書いてマルコにわたしながらいいました。 「それではこの手紙をポカへ持っておいで、ここからポカへは二時間ぐらいでゆかれる。そこへいってこの手紙の宛名になっている紳士をたずねなさい。たれでも知っている紳士ですから、その人が明日お前をロサーリオの町へ送ってくれるでしょう、そこからまたたれかにたのんでコルドバへゆけるようしてくれるだろうから。コルドバへゆけばメキネズの家もお前のおかあさんも見つかるだろうから、それからこれをおもち。」 こういって紳士はいくらかのお金をマルコにあたえました。 マルコはただ「ありがとう、ありがとう」といって小さいふくろを持って外へ出ました。そして案内してくれた少年とも別れてポカの方へ向って出かけました。 二 マルコはすっかりつかれてしまいました。息が苦しくなってきました。そしてその次の日の暮れ方、果物をつんだ大きな船にのり込みました。 船は三日四晩走りつづけました。ある時は長い島をぬうてゆくこともありました。その島にはオレンヂの木がしげっていました。 マルコは船の中で一日に二度ずつ少しのパンと塩かけの肉を食べました。船頭たちはマルコのかなしそうな様子を見て言葉もかけませんでした。 夜になるとマルコは甲板で眠りました。青白い月の光りが広々とした水の上や遠い岸を銀色に照しました、マルコの心はしんとおちついてきました。そして「コルドバ」の名を呼んでいるとまるで昔ばなしにきいた不思議な都のような気がしてなりませんでした。 船頭は甲板に立ってうたをうたいました、そのうたはちょうどマルコが小さい時おかあさんからきいた子守唄のようでした。 マルコは急になつかしくなってとうとう泣き出してしまいました。 船頭は歌をやめるとマルコの方へかけよってきて、 「おいどうしたので、しっかりしなよ。ジェノアの子が国から遠く来たからって泣くことがあるものか。ジェノアの児は世界にほこる子だぞ。」 といいました。マルコはジェノアたましいの声をきくと急に元気づきました。 「ああそうだ、わたしはジェノアの児だ。」 マルコは心の中で叫びました。 船は夜のあけ方に、パラアナ河にのぞんでいるロサーリオの都の前にきました。 マルコは船をすててふくろを手にもってポカの紳士が書いてくれた手紙をもってアルゼンチンの紳士をたずねに町の方をゆきました。 町にはたくさんな人や、馬や、車がたくさん通っていました。 マルコは一時間あまりもたずね歩くと、やっとその家を見つけました。 マルコはベルをならすと家から髪の毛の赤い意地の悪そうな男が出てきて 「何の用か、」 とぶっきらぼうにいいました。 マルコは書いてもらった手紙を出しました。その男はその手紙を読んで 「主人は昨日の午後ブエーノスアイレスへ御家の人たちをつれて出かけられた。」 といいました。 マルコはどういってよいかわかりませんでした。ただそこに棒のように立っていました。そして 「わたしはここでだれも知りません。」 とあわれそうな声でいいました。するとその男は、 「物もらいをするならイタリイでやれ、」 といってぴしゃりと戸をしめてしまいました。 マルコはふくろをとりあげてしょんぼりと出かけました。マルコは胸をかきむしられたような気がしました。そして 「わたしはどこへ行ったらよいのだろう。もうお金もなくなった。」 マルコはもう歩く元気もなくなって、ふくろを道におろしてそこにうつむいていました、道を通りがかりの子供たちは立ち止ってマルコを見ていました。マルコはじっとしておりました。するとやがて「おいどうしたんだい。」とロムバルディの言葉でいった人がありました。マルコはひょっと顔を上げてみると、それは船の中で一しょになった年よったロムバルディのお百姓でありました。 マルコはおどろいて、 「まあ、おじいさん!」 と叫びました。 お百姓もおどろいてマルコのそばへかけて来ました。マルコは自分の今までの有様を残らず話しました。 お百姓は大変可愛そうに思って、何かしきりに考えていましたが、やがて、 「マルコ、わたしと一緒にお出でどうにかなるでしょう。」 といって歩き出しました。マルコは後について歩きました。二人は長い道を歩きました、やがてお百姓は一軒の宿屋の戸口に立ち止りました。看板には「イタリイの星」と書いてありました。 二人は大きな部屋へはいりました。そこには大勢の人がお酒をのみながら高い声で笑いながら話しあっていました。 お百姓はマルコを自分の前に立たせ皆にむかいながらこう叫びました。 「皆さん、しばらくわたしの話を聞いて下さい、ここにかわいそうな子供がいます。この子はイタリイの子供です。ジェノアからブエーノスアイレスまで母親をたずねて一人で来た子です。ところがこんどはコルドバへ行くのですがお金を一銭も持っていないのです。何とかいい考えが皆さんにありませんか。」 これをきいた五六人のものは立ち上って、 「とんでもないことだ。そんなことが出来るものか」 といいました。するとその中の一人は、テエブルをたたいて、 「おい、我々の兄弟だ。われわれの兄弟のために助けてやらねばならぬぞ。全く孝行者だ。一人できたのか。ほんとに偉いぞ。愛国者だ、さあこちらへ来な、 こういってその男はマルコの肩をたたきふくろを下してやりました。 マルコのうわさが宿屋中にひろがると大勢の人たちが急いで出てきました、ロムバルディのおじいさんはマルコのために帽子を持ってまわるとたちまち四十二リラのお金があつまりました[#「あつまりました」は底本では「あつりまりました」]。 みんなの者はコップに葡萄酒をついで、 「お前のおかあさんの無事を祈る。」といってのみました。 マルコはうれしくてどうしてよいかわからずただ「ありがとう。」といって、おじいさんのくびに飛びつきました。 つぎの朝マルコはよろこび勇んでコルドバへ向って出かけました。マルコの顔はよろこびにかがやきました。 マルコは汽車にのりました。汽車は広々とした野原を走ってゆきました。つめたい風が汽車の窓からひゅっとはいってきました。マルコがジェノアを出た時は四月の末でしたがもう冬になっているのでした。けれどもマルコは夏の服を着ていました。マルコは寒くてなりませんでした。そればかりでなく身体も心もつかれてしまって夜もなかなか眠ることも出来ませんでした。マルコはもしかすると病気にでもなって倒れるのではないかと思いました。おかあさんにあうことも出来ないで死んだとしたら……マルコは急にかなしい心になりました。 コルドバへゆけばきっとお母さんにあえるかしら、ほんとうにおかあさんにあうことがたしかに出来るかしら。もしもロスアルテス街の紳士が間違ったことをいったのだとしたらどうしよう。マルコはこう思っているうちに眠ってゆきました。そしてコルドバへ行っている夢を見ました、それは一人のあやしい男が出てきて、「お前のおかあさんはここにいない。」といっている夢でした。マルコははっとしてとびおきると自分の向うのはしに三人の男が恐しい眼つきで何か話していました。マルコは思わずそこへかけよって、 「わたしは何も持っていません。イタリイから来たのです。おかあさんをたずねに一人できたのです。貧乏な子供です。どうぞ、何もしないで下さい。」 といいました。 三人の男は彼をかわいそうに思ってマルコの頭をなでながらいろいろ言葉をかけ一枚のシオルをマルコの体にまいて、眠られるようにしてくれました。その時はもう広い野には夕日がおちていました。 汽車がコルドバにつくと三人の男はマルコをおこしました。 マルコは飛びたつように汽車から飛び出しました。彼は停車場の人にメキネズの家はどこにあるかききました。その人はある教会の名をいいました。家はそのそばにあるのでした。マルコは急いで出かけました。 町はもう夜でした。 マルコはやっと教会を見つけ出して、ふるえる手でベルをならしました。すると年取った女の人が手にあかりを持って出てきました。 「何か用がありますか」 「メキネズさんはいますか。」 マルコは早口にいいました。 女の人は両手をくんで頭をふりながら答えました。 「メキネズさんはツークーマンへゆかれた。」 マルコはがっかりしてしまいました、そしてふるえるような声で、 「そこはどこです。どのくらいはなれているのです。おかあさんにあわないで、死んでしまいそうだ。」 「まあ可愛そうに、ここから四五百 女の人は気の毒そうにいいました。 マルコは顔に手をおしあてて、「わたしはどうしたらいいのだろう、」 といって泣き出しました。 女の人はしばらくだまって考えていましたが、やがて思い出したように、 「ああ、そうそう、よいことがある、この町を右の方へゆくと、たくさんの荷車を牛にひかせて明日ツークーマンへ出かけてゆく商人がいますよ。その人に頼んでつれていってもらいなさい。何か手つだいでもすることにして、それが一番よい今すぐに行ってごらんなさい。」 といいました。 マルコはお礼をいいながら[#「いいながら」は底本では「いいならが」]ふくろをかつぎ急いで出かけました。しばらくゆくとそこには大ぜいの男が荷車に穀物のふくろをつんでいました。 マルコはおそるおそるその人のそばへ行って「自分もどうかつれていって下さい。おかあさんをさがしにゆくのだから。」 とたのみました。 親方はマルコの様子をじろじろと見ながら 「お前をのせてゆく場所がない。」 とつめたく答えました。 マルコは一生懸命になって、たのみました。 「ここに十五リラあります。これをさしあげます。そして途中で働きます。牛や馬の飲水もはこびます。どんな御用でもいたします。どうぞつれて行って下さい。」 親方はまたじろじろとマルコを見てから、今度はいくらかやさしい声でいいました。 「おれたちはツークーマンへゆくのではない、サンチヤゴという別の町へゆくのだよ。だからお前をのせていっても途中で下りねばならないし、それに下りてからお前はずいぶん歩かなければならぬぞ。」[#「」」は底本では欠落] 「ええ、どんな長い旅でもいたします。どんなことをしましてもツークーマンへまいりますからどうかのせていって下さい。」 マルコはこういってたのみました。 親方はまた、 「おい二十日もかかるぞ。つらい旅だぞ。それに一人で歩かねばならないのだぞ。」 といいました。 マルコは元気そうな声でいいました。 「はいどんな事でもこらえます、おかあさんにさえあえるなら。どうぞのせていって下さい」 親方はとうとうマルコの熱心に動かされてしまいました。そして「よし」といってマルコの手を握りしめました。 「お前は今夜荷車の中でねるのだよ。そして明日の朝、四時におこすぞ。」 親方はこういって家の中へはいってゆきました。 朝の四時になりました。星はつめたそうに光っていました。荷車の長い列はがたがたと動き出しました。荷車はみな六頭の牛にひかれてゆきました。そのあとからはたくさんな馬もついてゆきました。 マルコは車に積んだ袋の上にのりました。がすぐに眠ってしまいました。マルコが目をさますと、荷車の列はとまってしまって、 マルコはパンをやく火をこしらえたり牛や馬にのませる水をくんできたり角灯の掃除をしたりしました。 みんなの進む所は、どちらを見ても広い平野がつづいていて人家もなければ人影も見えませんでした。たまたま二三人の旅人が馬にのってくるのにあうこともありましたが、風のように一散にかけてゆきました。くる日もくる日もただ広い野原しか見えないのでみんなは、たいくつでたいくつでたまりませんでした。人足たちはだんだん意地悪くなって、マルコをおどかしたり マルコはへとへとにつかれて、夜になっても眠ることが出来ませんでした、荷車はぎいぎいとゆれ、体はころがるようになり、おまけに風が吹いてくると赤い土ほこりがたってきて息をすることさえ出来ませんでした。 マルコは全くつかれはててしまいました。それに朝から晩まで叱られたりいじめられたりするので日に日に元気もなくなってゆきました。ただマルコをかわいがってくれるものは親方だけでした。マルコは車のすみに小さくうずくまってふくろに顔をあてて泣いていました。 ある朝、マルコが水を汲んでくるのがおそいといって人足の一人が、彼をぶちました。それからというものは人足たちは代る代る彼を足でけりながら、「この宿なし犬め」といいました。 マルコは悲しくなってただすすりあげて泣いていました。マルコはとうとう病気になりました。三日のあいだ荷車の中で何もたべずに苦しんでいました。ただ水をくれたりして親切にしてくれるものは親方だけでした。親方はいつも彼のところへきては、 「しっかりせよ。母親にあえるのだから」 といってなぐさめてくれました。 マルコは、もう自分は死ぬのだと思いました。そしてしきりに「おかあさん。もうあえないのですか。おかあさん。」といって胸の上に手をくんで祈っていました。 親方は親切に看護をしたので、マルコはだんだんよくなってゆきました。すると今度は一番安心することの出来ない日がきました。それはもう九日も旅をつづけたのでツークーマン[#「ツークーマン」は底本では「シークーマン」]へゆく道とサンチヤゴへ行く道との分れる所へ来たからです。親方はマルコに別れなければならないことをいいました。 親方は何かと心配して道のことを教えてくれたり歩く時にじゃまにならないようにふくろをかつがせたりしました。マルコは親方の体にだきついて別れのあいさつをしました。 三 マルコは青い草の道に立って手をあげながら荷車の一隊を見送っていました。荷車の親方も人足たちも手をあげてマルコを見ていました。やがて一隊は平野の赤い土ほこりの中にかくれてしまいました。 マルコは草の道を歩いてゆきました。夜になると草のしげみへはいってふくろを枕にして眠りました。やがていく日かたつと彼の目の前に青々とした山脈を見ることが出来ました。マルコは飛びたつようによろこびました。山のてっぺんには白い雪が光っていました。マルコは自分の国のアルプス山を思い出しました。そして自分の国へ来たような気持になりました。 その山はアンデズ山でありました。アメリカの大陸の脊骨をつくっている山でした。空気もだんだんあたたかになってきました。そして所々に小さい人家が見えてきました。小さい店もありました。マルコはその店でパンを買ってたべました。また黒い顔をした女や子供たちにもであいました。その人たちはマルコをじっと見ていました。 マルコは歩けるだけ歩くと木の下に眠りました。その次の日もそうしました。そうするうちに彼の元気はすっかりなくなってしまいました。靴は破れ足から血がにじんでいました、彼はしくしく泣きながら歩き出しました。けれども「おかあさんにあえるのだ。」と思うと足のいたさも忘れてしまいました。 彼は元気を出して歩きました。ひろいきび畑を通ったり、はてしない野の間をぬけたり、あの高い青い山を見ながら四日、五日、一週間もたちました。彼の足からはたえず血がにじみ出ました、また急に元気がなくなって来ました、でもとうとうある日の夕方一人の女の人にあいましたから、 「ツークーマンへはここからいくらありますか。」 とたずねました。 女の人は、 「ツークーマンはここから二 と答えました。 マルコはよろこびました。そしてなくした元気をとりもどしたように歩き出しました。しかしそれはほんのしばらくでした。彼の力はすぐに抜けました。けれども心の中はうれしくてなりませんでした。 星はきらきらとかがやいていました、マルコは草の上に体をのばして美しい星空を眺めました。この時はマルコの心は幸福でありました。マルコは光っている星に話でもするようにいいました。 「ああおかあさん、あなたの子のマルコは今ここにいます。こんなに近くにいます。どうぞ無事でいて下さい、おかあさん、あなたは今何を思っていられますか。マルコのことを思って下さるのですか。」 マルコの母親は病気にかかってメキネズの立派なやしきにねていました。ところがメキネズは思いがけずブエーノスアイレスから遠くへ出かけねばならなくなりコルドバへきたのでした、その時母親は腫物が体の内に出来たので外科のお医者さんにかかるためツークーマンに見てもらっていたのでした。けれども大変な重い病気だったのでどれだけたってもなおりませんでした。それで手術をしてもらうということになりました。けれども母親は 「わたしはもうこらえる力がありません。手術のうちに死んでしまいます。どうかこのまま死なせて下さい。わたしはもう苦しまずに死にとうございます。」 といいました。 主人と奥さんは「手術をうけると早くなおるから、もっと元気を出しなさい、子供たちのためにも早くなおらなければなりません。」としずかにいってきかせました。 母親はたださめざめと泣きだしました。 「おお子供たち、みんなはもう生きていないだろう。わたしも死んでゆきたい。旦那様、奥さま、ありがとうございます。何かとお世話になりましてありがとうございます。わたしはもうお医者さまにかかりたくありません。わたしはここで死にとうございます。」 主人は「そんなことをいうものではない」といって女の手をとって慰めました。 けれども彼女はまるで死んだように眼をとじていました。主人と奥さんとはろうそくのかすかな光でこのあわれな女を見守っていました。「家を助けるために三千里もはなれた国へきて、あんなに働いたあとで死んでゆく。ほん当に可哀そうだ。」主人はこういってそこにぼんやりと立っていました。 マルコはいたい足をひきずりながら、ふくろをせおって次ぎの日の朝早くアルゼンチンの国でもっともにぎやかな町であるツークーマンの町へはいりました。ここもまた同じような街で、まっすぐな長い道と、ひくい白い家とがありました。ただマルコの目をよろこばしたものは大きな美しい植物と、イタリイでかつて見たこともないようにすみ切った青空でありました。彼は街をずんずん歩いてゆきました。そしてもしか母親にあいはしないかと女の人にあうたびにじっと見ました。女の人みんなに自分の母親でないかたずねてみたい心持になりました。街の子供たちは四五人あつまってきて、みすぼらしいほこりだらけの少年をじっと見ていました。 しばらく行くと道の左かわにイタリイの名の書いてある宿屋の看板が目につきました。中には眼鏡をかけた男の人がいました。 マルコはかけていってたずねました。 「ちょっとおたずねしますがメキネズさんの家はどちらでしょうか。」 男の人はちょっと考えていましたが、 「メキネズさんはここにはいないよ。ここから六 と答えました。 マルコは剣で胸をつかれたようにそこに打ち倒れてしまいました。すると宿屋の主人や女たちが出てきて、「どうしたのだ、どうしたというのだ、」といいながらマルコを部屋の中へ入れました。 主人は彼をなだめるようにいいました。 「さあ、何も心配することはない。ここからしばらくの時間でゆける。川のそばの大きな砂糖工場がたっているところにメキネズさんの家がある。誰でも知っているよ、安心なさい、」 しばらくするとマルコは生きかえったようにおき上りながら、 「どちらへ行くんです、どうぞ早く道を教えて下さい。私はすぐにゆきます。」 といいました。 主人は、 「お前はつかれている、休まないと行かれない。今日はここで休んで明日ゆきなさい、一日かかるのだから。」 とすすめました。 「いけません。いけません。私は早くおかあさんにあわなければなりません。すぐにゆきます。」 マルコの強い心に動かされて、宿屋の主人は一人の男をわざわざ町はずれの森まで送ってよこしました。マルコは大変よろこんで教えてもらった道を急ぎました。道の両がわにはこんもりとした並木が立ちならんでいました。マルコは足のいたいことも忘れて歩きました。 その夜母親は大そう苦しんでもう息も切れ切れに、「お医者さまを呼んで下さい。助けて下さい。わたしはもう死にます。」 といいました。 主人や奥さんや女中たちは女の手をとってなぐさめました。 もう夜中でありました。マルコはもう歩む力もなくなっていく度となくころびました、けれどもマルコは「おかあさんにあえるのだ。」という心が胸にわいてきて足のいたいことも忘れてしまいました。 やがて東の空がしらじらとあけてきて、銀のような星も次第に消えてゆきました。 朝の八時になりました。ツークーマンのお医者さんは若い一人の助手をつれて病人の家へ来ました。そしてしきりに手術をうけるようにすすめました。メキネズ夫婦もそれをすすめました。けれどもそれは無駄でした。女はどうしても手術をうける気はありませんでした。手術をうけないうちに死んでゆくのだとあきらめているからでした。医者はそれでもあきらめずにもう一度いってみました。 けれども女は、 「わたしはこのまま安らかに死んでゆきとうございます。」 といいました、そしてまた消えてゆくような声で、 「奥さま、わたし[#「わたし」は底本では「わたく」]の荷物と、この少しばかりのお金を家の者に送ってやってください、私はこれで死んでゆきます。どうぞ私の家へ手紙も出して下さい。わたしは子供を忘れることが出来ません。小さい子のマルコはどうしているでしょう、ああマルコが……」 といいました。 その時、主人もいませんでした。奥さんはあわただしくかけてゆきました。しばらくすると医者はよろこばしい顔をしてはいってきました。主人も奥さんもはいってきました。[#「。」は底本では欠落]そして病人に、いいました。 「ジョセハ、うれしいことをきかせてあげるよ。」 「おどろいてはいけません。」 女はじっとその声をきいていました。 奥さんは 「お前がよろこぶことですよ、お前の大そう可愛がっている子にあうのですよ。」 女はきらきらする目で奥さんを見ました。[#「。」は底本では欠落]そしてありったけの力を出して頭をあげました。 その時でした、ぼろぼろの服をきてほこりだらけになったマルコが入口に立ったのでした。 女はびっくりして「あっ」と叫び声をあげました。 マルコはかけよりました。母親はやせた細い手をのばしてマルコをだきしめました。そして気ちがいのように「どうしてここへ来たのほんとうにお前なのか。本当にマルコだねえ、ああほんとうに」と叫びました。 女はすぐに医者の方をむいていい出しました。 「お医者様、どうぞなおして下さい。早く手術をして下さい。わたしは早くよくなりたいです。どうぞお医者さま、マルコに見せないで。」 マルコは主人につれられて部屋を出ました。[#「。」は底本では欠落]奥さんも女たちもいそいで出てゆきました。 マルコは不思議でなりませんでしたから、 「おかあさんをどうするのですか。」 と主人にたずねました。 主人はおかあさんが病気だから手術を受けるのだといいました。 と不意に女の叫び声が家中にひびきました。 マルコはびっくりして「おかあさんが死んだ。」と叫びました。 医者は入口に出て来て「おかあさんは助かった、」といいました。 マルコはしばらくぼんやりと立っていましたが、やがて医者の足許へかけていって泣きながら、 「お医者さま、ありがとうございます[#「ございます」は底本では「ざざいます」]。」 といいました。 しかし医者はマルコの手をとってこういいました。 「マルコさん。おかあさんを助けたのは私ではありません。それはお前です。英雄のように立派なお前だ!」 底本:「家なき子」九段書房 1927(昭和2)年10月15日発行 |
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